自治体はいつまで「答えを持っている存在」であるのか - これから、自治体は『厄介な問題』に向き合わざるを得ない
行政は、いつから「答えを持っている存在」になったのだろうか。
窓口の開庁時間、散策路の整備、中心市街地の再生、人口減少下のインフラ維持、子育て政策、福祉の再編。今日の自治体が直面する課題のほとんどは、机上の計算で答えが出るものではない。利害関係者の数だけ価値観があり、何が「成功」なのかすら最初は定義できず、試してみてはじめて何が問題だったのかが見えてくる。
けれど多くの自治体は(少なくとも、全国の総数と比して見れば)、依然として「正解を持っている前提」で動こうとし、市民を「参加してもらう存在」として扱う。だから、他に何も変えることなく、市民参加プラットフォームだけを入れても市民はもちろんのこと、庁内も盛り上がらないこともあるし、投稿は集まっても政策にフィードバックされないことも起こりうる。
Liqlidに限らず、参加・対話のためのデジタルツール全般に共通する“導入したのに動かない”という壁は、ツール側の問題ではなく、問題そのものの性質を取り違えていることに起因している。
そもそも、これは『厄介な問題』なのだ
社会科学者のRittelとWebberが1973年の論文で示したのは、政策が扱う多くの問題は、技術的問題(tame problem)ではなく「厄介な問題(Wicked Problems)」だという構造的な指摘だった。厄介な問題には五つの特徴がある。問題の定義そのものが定まらない。ステークホルダーごとに価値観・正解が異なる。因果関係が複雑で、唯一の正解がない。試して学ぶしかない(リハーサルが効かない)。そして、解決策が新たな問題を生むこともある。
これは、自治体が日々向き合っている問題そのものだ。中心市街地の活性化に「正解」はない。窓口時間の最適解は、平日通勤者と高齢介護家族で別物だ。散策路は誰のための、何のための空間なのかすら、議論の対象になる。それでも従来の行政の作法は、問題の輪郭が定まり、専門家が解法を計算できるtame problem(解法が定まり、専門家が計算で解ける問題)を前提に最適化されてきた。審議会、要綱設置委員会、パブリックコメント、議会。いずれも「正しい答えに到達する手続き」として組まれている。
ところが、tame(解ける問題向け)の作法でwicked(定義困難で唯一解のない問題)を処理しようとすると、必ずどこかで空回りが起きる。問題定義が外れていたことが実装後に露呈する。想定しなかった層から強い反発が出る。決めたはずの線がすぐに引き直される。これらの“見えない手戻り”は、行政運営の総コストを静かに、しかし確実に押し上げていく。
地方部では官民双方の担い手が痩せ、もはや厄介な問題から逃げる余裕がない。都市部でもリソース制約が強まるにつれ、tame(解ける問題向けの)作法の限界は近づいている。「いま厄介な問題に向き合うか」ではなく「いつから向き合うか」という問いが、すべての自治体に迫っている。
厄介な問題に向き合う作法は『共進化』しかない
Wicked problems(厄介な問題)を扱うには、単線的な「分析→設計→実装」では足りない。必要なのは、問題理解と解決策が同時に深まっていく『共進化』のループである。仮の問題定義に試作の解決策をぶつけ、そこから学んで問題を再定義し、解決策も進化させる。Liqlidは、まさにこのループを支える土台として設計されている。常設の議論空間、AIによる論点可視化、段階的な合意形成、多様な参加導線といった構造自体が、「答えはまだ確定していない」「動かしながら学ぶ」という運営側の構えを要求している。
裏を返せば、運営側が「最初から答えを持っている」前提を手放さない限り、Liqlidの構造は宝の持ち腐れになる。問題が固定されれば共進化は始まらず、AIの論点整理は装飾に終わり、市民は形式的参加を見抜いてシラケる。これはツールそのものの失敗 ではなく意識の持ち方の失敗である。
求められるスタンスとは、『厄介さを認める覚悟』ではないか
ここで決定的に効いてくるのが、自治体側のスタンスである。地方自治法第1条が「民主的にして能率的」と並べる順序は、飾りではない。民主性を曖昧にしたまま能率性だけを追えば、wicked(定義困難で唯一解のない問題)をtame(解法が定まる問題)として処理することになり、後から反発と調整工数が膨らみ、結果的に能率性そのものも損なう。やり直し、摩擦、信頼の毀損といった、行政運営にかかるコスト、つまり将来“手戻りするコストを増大させる。
だからこそ共創は理想論ではなく、意思決定コストを下げ、手戻りを抑止するための現実的な技術として位置づけ直されるべきものだ。
腹落ちできている自治体は、行動が一変する。「結局、課題は何なのか」「結局、誰が払うのか」「結局、誰が決めるのか」という三つの核となる問いを勇気をもって示し、論点・制約条件・コスト構造・比較情報・将来見通しを開く。今引いてある線を言語化し、一度溶かし、引き直す覚悟でプロセスを設計する。これは、「自分たちも答えを持っていない」と認める覚悟であり、wicked problems(厄介な問題)の本質に向き合うことそのものである。
Liqlid は、厄介な問題を「触れる問題」に変える装置である
ただし、覚悟だけでは仕組みにならない。職員個人の善意や熱意に依存した共創は、人事異動でいとも簡単に消える。仕組みになっていなければ、やり方は引き継がれず、運用は崩れていく。これは多くの自治体で繰り返されてきた現実だ。
ここでLiqlidの意味が変わる。Liqlidは「市民の声を集める箱」ではなく、自治体のスタンスを“常設の構造”として固定する仕組みとして効く。常設の対話のための空間が「対話は単発イベントではなく日常」という前提を可視化する。AIによる論点可視化が「議論の蓄積を次の施策にフィードバックする」回路を担う。段階的なプロセスが「一度きりの意見募集」ではない、複層的な意見募集というプロセスとして組織にインストールする。
以前、別の拙稿で紹介した、豊岡市の開庁時間短縮試行にあたっての意見募集は、wickedな(唯一解のない)「窓口時間のあり方の最適解」について、シビックとよおか(豊岡市版Liqlid)で、「試行期間の体験」と「代替手段の利用行動」の双方を解像度を落とさず受け止め、二項対立に閉じないように、アイデアを募集した。
長岡京市の犬川散策路リニューアルは、wickedな(価値観が交差する)「誰のための公共空間か」に対して、生活者の体験知を整備前から拾い上げ、後戻りの効かないハード整備にVoice NAGAOKAKYO(長岡京市版Liqlid)で、対話の場を早くから開いた。
酒田市のまちなかグランドデザインは、wickedな(多層的に絡み合う)中心市街地の再生に対して、さかポス(酒田市版Liqlid)や、民間施設での対面のワークショップなど、参加導線を複線化することで意見の偏りを抑え、令和8年度以降、エリアプラットフォームの開設に向けて、多様な主体呼び込む土台を整えている。
いずれも、wicked(厄介な性質)をtame(解ける問題)に矮小化せず、wicked(厄介)のまま扱える形に変えている事例である。
そして、共創の意味そのものも、時間軸で変わっていく。短中期には、wicked(厄介な問題)を扱う説明責任の装置として。長期には、人口減少と縮充のなかで「民主主義コストとしての納得解」を生み出す装置として。目的は変われど、wicked(厄介さ)に向き合う必要は消えない。
『触らない』ではなく『触り始める』へ
厄介な問題の最大の罠は、「難しいから触らない」「解けないから後回し」という対処である。しかし、自治体は厄介な問題から逃げる余裕をどんどん失っていく。問われているのは、今、その厄介さを引き受ける覚悟と、それを支える仕組みである。
Liqlidは、解けない問題を直ちに解く魔法のツールではない。けれど、解けない問題を「触れる問題」に変える装置ではある。仮の問題定義に手を伸ばし、試作の解決策を小さく試し、そこから学んで問題自体を引き直す。問いと解決策の「共進化」とも言えるループを、職員個人ではなく組織の仕組みとして持続させるための切り口である。
スタンスなきツールは空回りし、ツールなきスタンスはスケールしない。覚悟と仕組みが揃ったとき、自治体ははじめて厄介な問題に「触り始める」ことができる。それが、これからの新しい行政改革の現実的な第一歩ではないか。
そう確信して、弊社は、思いを同じくする自治体の皆さんと取り組みを始め、そして取り組み続けている。思いがある皆さんは、ぜひご連絡ください。
(文責:代表取締役CEO 栗本拓幸)
注:本稿は、公開情報に基づき、筆者の所感を示すものであり、本稿内で取り上げた各自治体を代表する意見ではありません。