Lisearch

2026/8/7

総力戦研究所による報告「日本必敗」は、なぜ通らなかったのか

映画『開戦前夜』から考える、熟議と拘束力

1. 答えを出せた「研究所」と、受け止められなかった組織

ふと思い立って、足を伸ばし、映画『開戦前夜』を観た。 本作は、猪瀬直樹の『昭和16年夏の敗戦』を原作とする。真珠湾攻撃の八か月前、内閣総理大臣の直轄機関である総力戦研究所に集められた若手が、官庁も軍も民間も横断して模擬内閣を組み、日米開戦の行く末をシミュレーションする。国家機密のデータを積み上げた議論の末に彼らが得た答えは「日本必敗」であり、そしてその報告は、時の近衛内閣への報告会で事実上退けられる。この一部始終を描いた作品である。

観ながら考えていたのは、二つのことだった。ひとつは、我々は同じ轍を踏まないのかということ。もうひとつは、総力戦研究所のような場を作らざるを得ない事態になったときに、そもそも我々はそれを作れるのか、そして作ったとして受け止められるのかということである。

ただ、後者を考えはじめてすぐに気づいた。総力戦研究所は、実際に作られたのである。戦後長らく経った2001年、「霞が関の政策プランBを考えよ」というビジョンのもとに、独立行政法人経済産業研究所(RIETI)が設立された。その60年も前に、時の政府は、自らに不都合な「プランB」を出しうる組織として、総力戦研究所を設置していたことになる。では、なぜその答えは、当時受け止められなかったのだろうか。

2. 報告を退けた政府は、間違っていたのか

ここで慎重になりたいのは、報告を退けた時の政府の論理を、単なる愚かさとして片づけないことである。映画の中で、いく人かの陸軍将校が述べていた「机上の演習は現実の偶発性を捉えられない」「戦争は計算通りには進まない」といった反論は、一面的には正しい。尚且つ、厄介なのは、シミュレーションの精度をどれだけ上げても、この反論を潰しきれないという点にある。つまり、「現実はシミュレーションを超える」という言辞は、いつでも使われうるのである。

総力戦研究所を設置できた理由にも、二つの面がある。総力戦研究所は「模擬」内閣であり、その答えに拘束力はなかった。だからこそ彼らは、忖度せずに「日本必敗」と書けたはずである。ところが、まったく同じ無害さが、机上の演習にすぎないという却下の理由にもなる。答えを言わせる自由と、答えを聞かなくてよい自由が、「模擬である」設計から同じく生まれている。

言わずもがな、報告会そのものの設計にも無理があった。研究所の論理的な結論により、自らが拠って立つ「南進」に向けた空気そのものを否定されるとき、政府側がそれを受け取らないのは、残念ながら無理からぬ反応である。

だとすれば、私たちが考えるべきは、研究所や政府の覚悟や良心そのものではなく、誰が、いつ、どのような形で受け止めるのか、受け止めなかったときに何を責任として引き受けるのかという、制度そのもののありようではないか。

3. 誰も決めていないのに、決まっていく

劇中を通して、現実とオーバーラップする箇所の一つは、この映画に、明確に決断を下す人物が最後まで現れないことである。誰かが「戦う」と決めたのではない。すでに動きはじめた事実の重みと、その場の空気に押されて、決まっていないはずのものが決まっていく。決定した者を探そうとしても、そこには誰もいない。丸山眞男が『現代政治の思想と行動』で軍国支配者の精神形態を論じ、既成事実への屈服と権限への逃避から成る無責任の体系と呼んだものが、そのまま劇中に現れている。責任が中空に浮いているのは、誰かが責任を逃れた結果ではない。誰も引き受けなくても物事が進んでしまうという、特定の個人に依らない構造そのものの帰結である。

そのうえでさらに顧みなければならないのは、権力を持つ者のふるまいである。上を見て、あるいはその場の空気に阿る。そして阿る者は、総力戦研究所という熟議の場をなくすのではなく、「飾り」として残す。それは体裁にもなるし、何より、中空に浮いている責任を自ら手繰り寄せたくないからであろう。

少し抽象度を上げて、総力戦研究所という営みの帰結を見てみると、厳選して人を集め、データを与え、議論をさせ、報告させた。しかし、その場が出した結論は、政府が一切真摯には受け止めなかった、ということになる。

もう一点、付け加えておきたい。時の政府は、必敗を示唆するデータがなかったから見なかったのではない。集めさせておいたからこそ、見ないという選択ができたのである。責任が中空に浮いていること、空気に阿ること、そして見ないという選択、この三つの現象こそが、総力戦研究所が意味をなさなかった理由ではないだろうか。

翻って、筆者自身が、自治体における市民参加の実務に携わる者として、前述の営みの帰結の相似形を見かけることは少なくない、ということに気が付く。飾りとして機能する熟議は、熟議がないことよりも厄介だ。ないのであれば欠けているとわかるが、飾りは満たされているように見えるからである。八十五年前の話として観ていたつもりが、途中からそう観られなくなる。率直に言えば、悲しさというべきだろうか、物悲しさというべきだろうか。ただ、この感情をひけらかして満足しないために、もう少し細かく観察を続けたい。

4. インプットの精度そのものは、プロセスの正当性・正統性を生まない

この構図は、筆者が先日『テクノロジカル・リパブリック』を読んで強く印象を持った内容とリンクする。同書の著者、アレックス・カープが率いる米国の防衛テック企業「Palantir(パランティア)」が開発しているのは、世界を実体と関係の集合として記述するオントロジーという仕組みであり、各国の政府機関や軍なども顧客としている。

アレックス・カープは、フランクフルトで社会理論の学位を取り、ハーバーマスやアドルノに連なる学問を究めた。例えば、ハーバーマスが『公共性の構造転換』で問うたのは、誰が誰に対して理由を述べるのかといった主体間の応答、つまりプロセスのありようそのものであった。他方で、Karpが率いるPalantir社が開発しているのは、世界をどう記述するかという装置であり、プロセスに入力されるインプットの質を高めることに、極めて注力したプロダクトである。同時に、同社は、プロダクトが使用されるプロセスの正当性・正統性については、自らの責任の外側にあるものとして整理している。つまり同社は、「誰が決定を引き受けるのかという問い」から、意図的に距離をとっているように見える。そして、この距離の取り方は、彼一人の問題ではない。筆者の業界でも、日常的に起きていることである。

我々の業界での距離の取り方は、こういう形をとる。よい意見を集め、論点を整理し、読みやすく届ける。そこまでが自分たちの仕事であり、その意見が実際にどう扱われるかは、発注者である自治体の判断に属する。受託という関係を踏まえれば、この線引きは無理のないものに見える。だが、プロセスに入るインプット、つまり、市民意見の質の改善そのものは引き受けるものの、プロセスの正当性・正統性には関与しないという姿勢であるならば、規模も顧客も違うだけで、先に見たPalantir社の姿勢と構造は同じである。

誤解のないように書けば、インプットを改善する仕事に意味がないというのではない。弊社が取り組む市民参加の領域でいえば、住民の声が可視化されない、論点が整理されないまま議論が終わる、フィードバックが返らず、更問を重ねるループも生まれない。そうした理由でアウトプットの質が悪くなる場面は少なくないし、弊社が取り組んでいるのは、こうしたインプットのありようの改善そのものだ。

ただ、それが効果を発揮するのは、プロセス全体のボトルネックがインプットそのものの質と量にある場面に限られる。では、例えば、総力戦研究所による報告は、質と量ともに限界があったと言えるだろうか。潤沢な国家機密のデータがあり、各分野のエリートが集まり、議論を尽くす時間もあった。しかし、あそこでインプットをさらに磨き、仮に質と量を高めていたとしても、報告会の結末は変わらなかったのではないだろうか。

参加の場の設えが整うほど、その場を開いたこと自体が、開いた者にとっては自らの正統性の証明として使いやすくなる。そして、参加の場が整うことは、それが「飾り」として機能する可能性を高めることでもある。粗い飾りは飾りと分かるが、精巧な飾りは見分けがつかない。飾りとそうでない参加の場を分かつのは、結局のところ、出されたインプットへの応答とフィードバックを、決定者がどれだけ免れにくくなっているか、という点に尽きると筆者は考えている。これを、プロセスの拘束性と呼んでおきたい。応答するかどうかが決定者の任意に委ねられている場は、どれほど精巧に作り込まれていても飾りになりうる。プロセスの正当性・正統性を支えているのは、インプットの精度そのものではなく、この拘束性なのだろう。

5. 応答を残すという手続きに向けて

では、応答し、フィードバックができるようにするために、手続きとして何ができるか。第3章で述べた、責任が中空に浮いていること、空気に阿ること、見ないという選択、という三つの現象に沿って考えたい。

責任が中空に浮いていることに対しては、過程を開いておく形で対抗することはどうだろうか。ここで「過程を開く」とは、議論の経過と、そこで出た論点がどう扱われたかが、他者から見えるようになっており、その状態そのものが過程から得られた産物の拘束力になる、という意味である。論点が開かれた場に出ていけば、その論点が反映されたかどうかはともかくとして、その論点をどのように扱ったのか、後から説明を求めることが容易になる。

また、空気へ阿る営みについて詳細に述べる前に、この映画において、報告を受けた時の政府側を愚かな人々として描いていないことを明確にしておきたい。内閣の側は、総力戦研究所の報告を理解できなかったのではない。劇中で東條英機は、研究所による研究の労をねぎらったうえで、「日露戦争も勝てるとは思っていなかったが勝った、戦争には意外裡のことが起こる」という趣旨の言葉を返していた。また、劇中では、迷いや後ろめたさを抱えたまま流れに乗っていく彼らの姿も映している。何も分かっていない人間が決めたことではなく、ある程度は分かっていた人たちが、それでも止められなかった姿を描いていた。

では、なぜ彼らは、総力戦研究所による報告を受け止め、開戦に向けた空気を止められなかったのか、空気に阿ったのだろうか。

それは、「空気を止める」者にこそ、ラベル(例:臆病者)がつくからである。すでに動きはじめた方向を続けることには、誰の名前もつかない。誰も決めていないのだから、続いた結果について後から問われる者もいない。ところが「一度立ち止まる」という選択を俎上に載せようものなら、その俎上に載せた当人の責任が問われ始める。つまり、責任が中空に浮いている構造のもとでは、止めようとした者だけが、その中空から責任を手繰り寄せることになる。第3章で書いたとおり、政府側はそれを引き受けたくなかったのだろう。止めようとした者だけが、ときに最前線への配置転換といった究極的な形で責任を問われうる。そうした場面において、空気に阿るという行為は、弱さの表れである以上に、合理的な選択となるのだろう。

そして三つ目の、見ないという選択も、同じ構図から説明できる。不都合なデータを見てしまえば、そのデータに基づいて、目の前で起こっている動きに介入するかどうかを、個人として判断しなければならなくなる。介入すれば責任を問われ、介入しなければ、見ていながら動かなかったことを問われる。知らないでいることが、その人を守る。だからこそ、「見ていないこと」にするのであろう。

こう整理すると、三つの現象の根には、共通する偏りがあることが分かる。流れのままに続けることは何も問われず、止める、見る、といった、流れと違う何かをしようとすることにだけ、当人へラベルを貼り、責任を取らせようとする。この偏りこそが、熟議を飾りに変えている土台なのだろう。だとすれば、手続きが担うべき役割も見えてくる。この偏りを、双方から均すことである。出された論点がどう扱われたのかが、他者から見える形で残っていれば、見ないでいたことも、退けたことも、後から説明を求められうる行為になる。つまり、続けることも、問われうるものになる。他方で、立ち止まることは、いくらか身軽になる。あのときこの論点はこう扱われた、という記録が積み重なっていれば、立ち止まるという判断は、誰かの英断としてではなく、積み重なった記録に沿った選択として成立しうるからである。

念のため確かめておくと、これは権力を縛れという主張ではない。筆者が決定者に求めているのは、熟議の場に参加したへの「同意」ではなく、参加者への「応答」である。すなわち、熟議の場に参加した参加者が出した結論に、常に、首長や行政、議会といった決定者が従うべきだ、ということではない。しかし、決定する立場にある者が従わないのであれば、なぜ従わないのか、その理由が参加者に見える言葉として残っていればよい。そして、理由が残ることは、決定する立場にある者自身を守りもする。後から問われたときに、当時どのような論点があり、何を考えてその結論を選んだのかを、決めた本人が去った後にも、組織として示せるからである。追及のためではなく、追跡のための手当て、と言い換えてもよい。

ただし、この仕組みには順序がある。決定の局面に入ってから、記録を残そう、理由を述べようと持ち出しても、その提案自体が、空気との力比べに巻き込まれてしまう。開戦へ動きはじめた後で「立ち止まるべきだ」と述べれば、それは誰かに決断を迫る言葉になる。しかし、動きはじめる前に、どのような結果が出たら一度立ち止まるのかが取り決められていたなら、立ち止まることは、個人の決断ではなく、取り決めどおりの手順であったはずだ。研究所の構成員たちの語気が弱かったのは、内容が理由ではなく、その言葉が紡がれたタイミングがその理由であろう。では、なぜ「約束」が事前に結ばれていれば違ったのか、次章で考えたい。

6. なぜ、「約束」は事前でなければならないのか

ここで、ハンナ・アーレントが『人間の条件』で論じた「約束」を補助線としたい。アーレントは、人間が自らの行為の帰結を見通せないことに対抗する能力として、約束を挙げた。見通せない未来のなかに、約束によって、部分的な確かさを作り出す。見通しが当たるから従うのではなく、当たるかどうか分からないからこそ、あらかじめ互いを縛っておく、という順序である。

この補助線を当てると、「約束」することは、物事が起こる前に行われなければならない理由が見えてくる。「日本必敗」という結果が出てしまった後では、その結果をどう扱うかという判断そのものが、開戦の是非をめぐるひとつの立場表明になってしまう。真摯に受け止めると述べれば開戦に慎重な側に立ったことになり、参考にとどめると述べれば推進する側に立ったことになる。つまり、結果が出た後で「扱い方」を議論しようとしても、その議論は必ず、結果そのものをめぐる争いに吸収されてしまう。他方で、結果が出る前であれば、どのような結果であれこのように扱う、という取り決めは、まだ誰の立場も脅かさない。

もっとも、当時の総力戦研究所に対して「約束しておけばよかったのに」と後知恵で迫りたいわけではないし、それは野暮な話である。歴史とは残酷なものであるが、総力戦研究所が設置されたとき、南進への流れはすでに動きはじめていた。その状況で「どのような結果が出たら立ち止まるか」を取り決めようとすれば、取り決めの提案そのものが、流れを疑う立場表明として受け取られただろう。先ほど「結果が出る前」と書いたが、正確には「決定への流れが生まれる前」でなければならなかったのである。総力戦研究所は、シミュレーションの能力もも、関係者の賢明さも有していた。しかし、その来歴からして、「約束」を結びうるタイミングはそのものは逸していたのだろう。つまり、研究所が生まれたときには、その時点はすでに過ぎていたのである。

ここまで来ると、前述の第4章と接続できる。第4章では、プロセスの正当性・正統性を支えるのはインプットの精度ではなく拘束性だ、と書いた。その拘束性の源こそが、事前に結ばれるべき「約束」である。約束さえ先にあれば、シミュレーションが多少粗くても、その結果は決定者を拘束しうるし、約束がなければ、どれほど精緻なシミュレーションであっても、決定者を拘束することはできない。事前の「約束」が拘束性を生み、拘束性がプロセスの正当性・正統性を支えることとなる。

付言すると、この約束は、関係者の心構えとしてではなく、明示的な形式として残される必要はあるだろう。誰と誰が交わしたのか、どこに記録されているのか、破られたときに誰の目に触れるのか。心構えだけであれば、重大な決定の局面で空気に流されうるが、形式として残っているものは、少なくとも、なかったことにはできない。この形式を設計することが、そして実際に形にすることが、熟議の場づくりを行う立場にある者として、深く自戒したい。

7. むすびに

その必要性が見えない時期には、この種の「約束」は過剰なものとして映る。何かしらの進展や展開を遅らせてしまう余計な手間だ、という見方も当然ありうる。無論、仮に「約束」を結べたとしても、実質を失い、単なる儀礼になっていく可能性は常にある。それに、約束を持ち出して立ち止まらせるのは結局のところ人ではないか、という指摘も、おそらく正しい。

しかしそれでも、本稿で考えてきたのは、良心を持つ数少ないものが、支配的な「空気」に対して、自らを危険な目に曝さずとも、対峙する仕組みのあり方である。

総力戦研究所の教訓を、勇気ある個人の絶対数が足りなかった物語として受け取るなら、我々は同じ轍を踏むだろう。あの映画が描いていたのは、正しい答えが出ても、正しいということだけでは通らない構造そのものである。構造には、構造で備えるほかない。筆者はなお、スクリーンの前を去ったのちも、反芻して考えている。

追記:一度脱稿してから、ふと思ったが、おそらくこの論は、「総力戦研究所」を「秋丸機関」と読み替えても、成立する議論であろう。

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この記事の執筆者

栗本 拓幸

代表取締役CEO

2020年にLiquitousを設立、現在は国内外100以上の官公庁・自治体等と連携。市民と行政が共創するプロセスの構想・企画設計・実施を強みとし、一貫して現場マネジメントに従事。 総務省 経営財務マネジメント強化事業アドバイザー、大阪府 合意形成研究会構成員、ハーバード大・デジタル市民参画 MooC アドバイザー