コラム
日本の民主主義について考える
2020年7月5日は東京都知事選の投票日だ。都民は自分の一票を誰に投じるのか今まさに考えている最中だろう。投票は権利であって義務ではないので、投票するかしないかは個人の自由である。しかし投票率の低下が問題視されているように、国民と政治が乖離しているというのが現在の日本の姿でもある。都知事選が近いということもあり、ここで改めて「日本の民主主義」について考えていきたい。
民主主義の本質は自分で決めたいという欲求
現在は選挙権を持つことが当たり前だが、およそ100年前は18歳以上の全国民が選挙権を持っているわけではなかった。日本で人々が民主主義を強く望んだ出来事の代表例として、1910年代から1920年代にかけての大正デモクラシーがある。その中で普通選挙法制定を進める大きな要因となったのが普選運動である。当時の日本は多額の税を納めるごく一部の上流階級の市民が選挙権を持ち、その他大勢の市民は政治に干渉することができなかった。吉野作造が説いた民本主義は、1910年代のそうした、非民主的状況に対する人々の不満を代弁し、民主主義を求める運動を加速させた。1925年に普通選挙法が制定されたが、選挙権が与えられるのは満25歳以上の男性に限られており、女性の参政権が認められたのは1945年になってからである。我々の先代が数十年の間要求し続けてやっと勝ち取ったものが、今まさに私たちが手にしている選挙権なのだ。
他人に押し付けられた社会やルールでなく、自分たちで社会を創り上げていく。自分で決めたと思えば、それを守ろうとする意欲も出てくる。つまり民主主義の価値とは自由の確保と自己決定が組み合わさっているところにある。しかし今の日本にはそうした民主主義の価値を十分に発揮しているとは言い難い。投票率に表れているように、現在の日本では多くの人が「政治」という言葉に対して「お国がやっていること」のような遠い存在、あるいは自分たちにはあまり関係のないものだと思っているのではないだろうか。
自分で決めることができなければ、それを守ろうとする意志も芽生えない
この状況は代議制民主主義の産物でもある。代議制民主主義は、国民に選ばれた代表が議会に集まるため、効率的な議論を生む一方で、国民の意見が反映されにくく、国民の当事者意識が薄れてしまう面があるからだ。
2020年6月23日に茨城県本会議で県民投票条例案[1]が否決されたのも、県政に県民の意見が反映されなかった一例であろう。民意が反映されにくいということを、茨城県民は身をもって体験した。既存の仕組みのままでは国民の当事者意識の希薄化が進行し続ける一方であり、自由の確保と自己決定の崩壊にも繋がりかねない。こうなってしまっては日本が民主主義国家であるという意義もなくなってしまう。
民意がより反映される何かしらの変化が必要なのは言うまでもない。解決策はある。現代ではテクノロジーが発達し、より民意が反映される仕組みをつくることは、もはや夢物語ではなく実現可能なところまで来ている。日本の主権者は私たち国民であり、自分たちで社会を創っていくという意識を常に求めていかなければならない。私たちは日本の主権者として今一度、民主主義の在り方を見つめなおし、新しい変化を模索する必要があるのではないだろうか。
[1]東海第二原子力発電所の再稼働に関し、県としての判断を行うに先立って、主権者である県民の声を聴く手段として県民投票を行うというもの
Author

藤井海
Kai Fujii
Researcher / CBO
民主主義をもっと身近に!
2000年生まれ。東京都台東区出身。法政大学法学部政治学科に在学。中学生の頃、台東区のデンマーク海外派遣に参加し、日本とデンマークの教育や政治などの社会システムの違いに衝撃を受ける。以来、政治に関心をもち、大学では主に経済分野から政治を学ぶ。

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